名古屋の祭
派手なことが好きな名古屋はお祭りも派手です。
特に夏はいろんなところで花火大会があって圧巻です。
その中でも私が好きなのは豊橋祇園祭です。今回はこのお祭りについて紹介しようと思います。
豊橋祇園祭について
豊橋の豊橋祇園祭。この祭りは鎌倉時代の初め頃が始まりだとされています。
祇園祭では疫病払いを祈願し、火使って悪霊放逐を行うという考え方が次第に手筒花火放揚に結びついたのだと推察されています。
ですが、花火の打上げ開始の時期に関しては諸説があり、少なくとも戦国時代、1543年の鉄砲伝来以降だと考えられています。
1558年、戦国時代に今川義元の統治下、吉田城城代によって手筒花火の奉納が執り行われていました。
他にも社史に氏子八ヶ町から手筒を放揚したりと、技を競い合っていたという記録が残されています。
この頃、本町の路上では流星手筒、仕掛け花火の一種である建物綱火等が小規模ですが打上げられていました。
時が進んで、江戸時代には平和の訪れと共に火薬の利用が多様化しました。
更に、吉田藩主の保護を受けつつ、本格的な花火大会へ成長していきました。
このような形で、豊橋祇園祭の花火は日本国内でも有数の歴史を持っています。江戸時代当時からもその盛大な祭りの様子が多くの文献に描かれています。
また、江戸時代には三河地方、徳川家康の出身地においては火薬の製造や貯蔵に関する規制が他藩よりも寛大でした。
このような背景から三河武士の間で、火薬の利用が広まったことで打ち上げ花火をあげる技術的土台ができたと考えられています
。
この吉田神社への奉納花火が発達したことで、境内にて余興として打上げてた仕掛け花火等が、後に豊川河川敷でも行われる様になりました。
現代では前夜祭を含めて、3日間にも及ぶ夏の一大風物詩となりました。
豊橋祇園祭の頼朝行列
更に、本祭では全国の祇園祭と同じ様に、八ケ町内を古式ゆかしいいでたちの氏子衆行列が練り歩きます。
これを神輿渡御と呼び、源頼朝公にちなんで豊橋祇園祭では頼朝行列と呼ばれています。
頼朝行列には東三河地方独特な笹踊りの舞い手が付き従っています。
1680年代にはこの笹踊りの様式が現在のかたちまでに出来上がっていたとされています。
踊り手は緋色の衣装に身を包んで3人1組になります。1人は太鼓を、2人は小太鼓を打ちながら踊ります。
踊りの最中には力石と呼ばれる石を踏む事によって悪霊を追放する、と言われています。